拓馬篇前記-習一1 - 木瓜咲く

拓馬篇前記-習一1

2017年10月12日木曜日

習一 拓馬篇前記

──今度の期末考査、受けなかったら留年ですよ。
 不快感を顔いっぱいに漏らす女教師が警告した。通知相手は実力考査をすっぽかした男子生徒。名前を小田切習一といった。彼は放課後に呼出しを受け、空き教室にて試験のやり直しをした。この言葉は個別試験の終了時に放たれた。
 習一は口答えをしなかった。その反応は教師の言い分をもっともだと思ったわけでも、自分のあやまちを反省したのでもない。ひとえに、早く解放されたかった。なのに教師は習一の煮え切らない態度を「悔い改めた」と手応えを感じたかのような笑みをつくった。退屈な時間の最後に見られた滑稽なシーンだった。
��留年か、それもいいな)
 教師の意図に反して、習一は格好の目標を得た気がした。現在の習一は高校二年生。順調にいけば大学受験を控える三年生になる。というのも習一が所属する雒英(らくえい)高校は進学校だ。ほとんどの生徒が名声のある大学進学を目指す。習一も入学当初はそのつもりだった。今はどうやれば周囲の大人を辟易させ、消耗させられるかということばかり研究を重ねている。それが目下の重要な報復だ。自分を進学率アップの駒としか見ぬ教師陣と、自分をひたすらに侮蔑の対象とする父親への。
 習一は校内の者に絡まれないようにまっすぐ外へ出る。急いで行かねばならぬ場所はないが、ひとまず学校から離れようと思った。ぐずぐずしていてはめんどうなやつが現れるのだ。
 暖色の光に照らされた校門にはだれもいない。帰宅部はとっくに帰り、部活動をする生徒はまだ学校に残っているからだろう。気兼ねなく通過する。
「お、来たな」
 習一はおもわず肩を震わせた。人の姿がないのに声が聞こえる。
「後ろだ、後ろ」
 振りかえれば校門の柱の前で中年の教師がしゃがんでいる。これが習一の警戒していた、めんどうなやつだ。姓を掛尾。二年生の一クラスを受け持つが習一の担任ではない。
「そんなヤな顔するなって」
 丈の長いコートを着た掛尾はむくっと立ち上がった。彼の手には古ぼけた本がある。習一はその背表紙に見覚えがあった。長らく名著と評される海外小説の翻訳本だ。記憶が確かなら、その本の保管場所は職員室付近にある本棚だろう。
 本を持つ掛尾の手は赤らんでいる。外気温の低さを考慮し、掛尾は長時間ここにいたのだと習一は推測する。
「オレを出待ちしてたのか」
 習一は掛尾の手をじっと見ながら言った。寒さのせいで感覚が鈍っていそうな皮膚の色だ。
「天気がいいから外で読書だ。おかげで五ページ進んだぞ」
「手がかじかむまでやることか?」
「集中するとちょっとの寒さくらい気にならんさ」
 集中して読んでもたった五ページか、と習一はツッコミそうになった。言うより早く「冗談はこれぐらいにしとくか」と掛尾が雑談を終わらせる。その声に重々しさがある。習一の気持ちも重く沈んだ。
「小田切、冬休みの間になにかあったのか?」
 習一は答えない。他人に打ち明けても、解決の見込みがないとわかっていた。
「ここ一ヶ月のお前はやっぱり変だ」
 似たようなことを他の教師にも言われた。だが決定的に異なる部分がある。語気に非難の色がない。掛尾は習一の変貌には並みならぬ経緯があったと信じているらしい。
「どうしたら、少し前の小田切にもどれるんだ?」
 どう、と聞かれて習一は両親の会話が頭をよぎる。あの時、あの場所に自分が近寄らなければ、今も愚直に優等生を演じていたにちがいない。そのほうが幸福であったのか、習一にはわからない。
「……記憶を消せたら、かな」
 掛尾の耳にギリギリ届く小声でつぶやく。都合よく嫌な記憶だけを消す解決法は現実にはありえない。習一は空想的な言葉の意味を追究される前に駆けだした。掛尾にあれこれ聞かれては煩わしいから逃げる。そう思わせるに足る対応はできたはずだ。
��もう、後には引けない)
 もっと確実に、自分は以前の自分にもどらないことを見せつける方法はないか。仲間のいる場所へ着くまでの時間を、その模索に費やす。そうすることで掛尾との問答中に生まれた居たたまれない気持ちを押し包んだ。



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